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小沢さんに焦点を当てて見ようと思います。
理由は、自分の能力の尺度以上に人を評価することは出来ない。だから自分より能力の高い人を能力の低い自分が正しく評価することは出来ない。もしかしたら「小沢一郎」という人は、凡人の私ごときの理解を大きく超えているかもしれないのではないかと前回のエントリーを書いているときに感じたからです。
やっぱり評価するためには、本人の生の声をしかもカット無しで聞くのが一番です。そういう意味でyoutubeは「革命」だと思います。小沢さんのこの演説は総裁になる前に地方行脚を繰り返していた麻生さんに通じるものがあります。まあ、行脚の元祖は小沢さんなんでしょうけど。
麻生さんも小沢さんも政策の面では独自性があって素晴らしいものがあると思う。そういう意味では麻生さんの構想力は今でもすごいと思います。ただ、悲しいかな、麻生さんには「実行力」がなかった。そこが地獄の底から這い上がってきた小沢さんとの違いなんだろうと思います。
さて、それはさておき、今回は「ばら撒き」と批判の強い「農家個別補償制度」についてですが、これは本当に間違った政策なのでしょうか??
この小沢さんの話を聞いて思うのは、「私たちは歴史を理解しなければいけない」ということです。「農業の集約化」は効率化という名目で半ば正当化されている(まだ制度的障害が大きいが)。むしろ零細農家を温存することは愚であるという世論すらある。けど、「農業の集約化」の裏にあるのは「大地主制の復活」に他ならないという小沢さんの理論。
全国各地、減反でもって田んぼが休んで草が生い茂っているところがたくさんあるんですよ。こんなもったいないことないんですね。そして、食糧が足りない足りないとか言ってますけれども、本当に全国の耕地を全部担ぎ起こして穀物を作ればですよ、日本は基本の穀物については自給できるんです。全国で適地適産して、今休ませている耕地を全部使ってきちんとみんなで耕作をすれば、日本はそれだけで9割以上の自給率になります。
~(中略)~
先進国でね、自給率が4割切ってるなんてのは日本だけなんですよ。イギリスでもかつては、イギリスが一番産業革命でね、工業が一番先に起きたとこですから。ここでは、最初は工業でいっぱい儲けて、植民地から安い食糧を買えばいいと言って、どんどんどんどん農地を減らしたんです。
そして、工場建てて、一生懸命世界に輸出して、計算上だけはそれで成り立つはずなんだけれども、結局イギリスの経済はダメになった。なぜかというと原因を尋ねてみると、「やっぱりそれぞれの国はきちんと食糧の自給体制を作らないとダメだ」ということに気がつきまして、今ではイギリスも7割の自給率で。どんな先進国でも自分たちが食べる最低限の穀物は全部自給してるんです。
~(中略)~
だから私たちは今までの政策を止めようと言っている。ところが政府では4町歩以上の耕作者の人でなきゃ補助金出しませんとか、組合なら20町歩以上でまとめなきゃだめですとか、まあこういう言い方をしてんですけれども、地域社会という面からしますと、それは結局「大規模化」というのは「大地主制」ということなんですよ、結局は。
最初はね、みんなで集まって組合作ってやってても、世代が変わるうちに、全部それはかつての戦前の「大地主制」と同じようになっちゃうんです。せっかく、戦後みんなが田んぼ持つようになり土地持つようになったのに、なんでまた「大地主制」を復活させないといけないのかというのが、私の本当に疑問なんだ。
今持っているこの小さな田んぼでも、十分にやっていける。そして、食糧も自給できるような政策を実行しさえすれば日本はやっていけんです。うそじゃないです。
~(中略)~
これは前からぼくの持論なんだ。必ず日本は食糧自給が出来る。そして、そのために農家の生産者のみなさんが再生産できるようなシステムを作りさえすればいいんだ。そういう考えでやってきた。
この発想からこの問題を考えたことのある人はいただろうか。
こういう問題を経済学的観点だけから考えたら、間違った答えが導き出されるような気がする。なぜなら「人間の効用」と「経済成長の極大化」は必ずしも一致するとは限らないからだ。政治が目指すべきものは「経済成長の極大化」ではない。「社会全体の効用の極大化」だ。「経済成長」はそのための手段に過ぎない。この点を間違ってはいけないと思う。
そして、よく考えたら、あらゆるものの「効率化」の追求は、「生産性」の追及であり、この世から得られる果実が有限であるならば、「効率化追求」の行き着く先は「独占」になる。これはまさに以前考えた、「ミクロの効率性の追求がマクロでの合成の誤謬を生む」という仮説に合致する。
「独占」が達成された時点で「自由」が奪われる。「自由」の追求が「独占」に達して選択の「自由」を奪う。「自由」が奪われるということは、体制から強制的に自由が剥奪される社会主義と同じ結果をもたらす。これは興味深いと同時に恐ろしい。そして、世界というか株式市場は特に「効率性」を自ら積極的に評価するシステムとなっている。
そして、経済のグローバル化が進むにつれて、いろんな産業で「寡占」状態が生まれてしまっている。それを株式市場は評価している。それは自分たちが自発的に「自由を奪う」方向に進んでいることを意味しはしないか。自由経済の追求は資本主義の原点回帰であるとみなすことができるのであれば、その行き着く先は「使われる側」にとっては実に悲惨な結末になる。
こうした観点から考えると、この政策は「ばら撒き」というレッテルで一蹴してしまってはいけない案件であるような気がする。
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